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松村:父に聞くと、一年間、お給料が出なかったそうです。

佐藤:.だろうと思ったわ。詳しくは知らないけれど、きっと貞方先生ですらもほとんど貰ってなかったのね。どこの病院に行っても超一流という待遇の貞方先生に対して、失礼なことだなと思ったもの。
いまの感覚では、そういうことが成り立ったというのが不思議な感じがするのでしょう?でも、あの頃はお金の損得関係なしに、お互いに助け合うという気風があったのよ。

松村:上流階級という層にしても、スケールが今と違ってものすごく余裕があったんでしょうね?

佐藤:そうよ、御手伝いさん、昔でいう女中さんね、そういう人が何人もいるようなお宅がたくさんあったの。上野毛にはそういうお宅が結構あったと思うわ。





松村:なるほど。現代では考えられませんね。 上野毛周辺の環境について、当時の様子をお話いただけますか?

佐藤:この辺りからは富士山もすごくきれいに見えていてね、いまの松村医院のある周辺は政治家や実業家の別荘が多かったのよ。当時のお金持ちは、本宅は渋谷の松濤辺りにあって、富士山や玉川が見えて景色のいい上野毛に別荘を…という感覚だったんじゃないかしら。大臣の方も多かったわね。
二子玉川から上野毛駅に続く道も舗装されてなくて、牛車がよく通ってたんだけど、この辺りに来ると安心するのか、稲荷坂をちょうどあがりきったところで排泄物を落としていったのよ(笑)。それがいい畑の肥料になるので、牛や馬が排泄するとバケツ持って拾いに来る人がたくさんいたわ。

松村:今じゃ想像がつきませんが、のどかな風景ですね。五島美術館が建ったのは戦後ですか?

佐藤:そうね。当時から五島さんの家もあって、庭園などは今とそれほど変わらないと思うわ。お隣の森も当時とほぼ同じ。あなたの家のそばに古い車が置いてあるけど、あれも昔からそのままにしてあるのだもの(笑)。

松村:環八が広がったのはオリンピックの年ですか?

佐藤:そう。それ以前は普通の通りだったわ。二子は今ほど開けてなくて、何もなかった。セメントで大きな土管を造るような工場があって、ほこりっぽかったの。高島屋ができて開けていったのよ。この辺の人の気持ちから言うと、二子のあたりが開けるのを好んではいなかったわね。昔ながらの自然を残してほしいのよ。蛇や狸、イタチが今でもいるでしょう。環八がなかったから空気もきれいだったし…。

松村:確かに時代とともに街が変わっていくのは仕方ないのかもしれませんが、いいところは残していってほしいものです。貴重なお話をありがとうございました。患者さんにとって便利で、しかも心の安らぎとなっていた“クリュッペルハイム”のように、その本質的な部分は引き継ごうと考えた松村医院の誕生については、次回のコラムでご紹介できたらと思います。

(取材日:2007年2月23日)


次回のコラムは、《松村医院小史》第2弾 松村医院誕生!を予定しています。