医院紹介 先生の紹介 健康コラム スタッフのご紹介 診療について 地図 リンク


<< 前のページに戻る





松村:うちにいらっしゃる古い患者さんの中にも、大東病院に通ってたという方がいます。夜間の救急で利用していたとかね。当時、入院する際に食べ物を自分で持参したとか。少なくともお米は持っていかなきゃ行けなかったと、残ってる資料にあるんですよ。

佐藤:そうだったでしょうね。ものが不足してた時代だから。でも昭和20年に入院した当時、料理は出たと思うわ。 あの頃、確かあなたのおじいさまが大東学園の事務をなさってて、おばあさまは守屋さんの秘書をなさってたのよ。そのあと、大東病院の事務長になられたのよ。

松村:らしいですね。聞くところによると、祖父は満州から引き上げてきて博多のMCAにいったんいて、その後、上京し池上のYMCAにいたそうなんです。でもあまり仕事がなくて、その関係でしょうか、大東学園に来ることになったらしいです。祖母は簿記もできたので秘書を務めて日々の糧を得ていて、祖父はあまり定職がなかったらしいです。

佐藤:その当時、立派な学歴や職歴があっても、仕事のない人はいっぱいいたのよ。そういう時代だったわね。守屋さんは聖路加国際病院の先生方とも大変親しくされていたんだと思うんだけど、戦争が終わった時、GHQの関係だかで接収されて一度聖路加病院を閉めた時代があったの。多くの立派な先生たちが職場を無くしてしまったので、大東病院の方で招いたのよ。その中のお一人に貞方亀世先生という有名な小児科の先生がいらしたの。ミシガン大学をお出になった立派な先生で、いまだに貞方先生ほど素晴らしい小児科の先生ってお目にかかったことないくらい。貞方先生をご存知な方が上野毛まで足を運んで来られていて、とにかく有名人が集まっていたわ。だけど病院としての商売はあまりうまくいってなかったみたいで、貞方先生も生活は大変だったと思う。そのうちに聖路加が復活して、戻っていかれたけれど…。その後、あなたのお父様の松村先生がいらしたのよね。

松村:母から聞いた話ですが、父は昭和35年くらいに聖路加病院でインターンをやっていたそうです。その後は無給料医局員で、只働きだったとか。博士号をとるために大学で実験をしてたんですけど、それじゃ生活できない訳ですよ。それで仕方なしに、大東病院に夜間診療の当直のアルバイトに来ていたそうです。

佐藤:あらそうなの、それは知らなかった。松村先生がいらっしゃると思ってたら、そのうち病院がなくなっちゃったのよ。


松村:大東学園病院がなくなった頃のことは覚えてますか?

佐藤:そうねえ。病院があった当時は、近いこともあって私もいろいろ重宝に利用していたけれど、だんだん社会の仕組みが徐々に変わってきて、縮小されていったみたいね。いろんなことがあったようで、最後には、その負債が原因で、結局、土地も建物も取られちゃったのよ。で、病院も学校も一気になくなってしまったの。入院していた人や働いていた人にとっては大変だったと思うわ。

松村:時代的な流れもあって、良心的な経営では成り立たなくなってきたということですね。

佐藤:当初は守屋さんの理想主義を支持する方が大勢いて成り立っていたけれど、だんだん世の中が変わってきて、慈善事業的なことにお金を出す人も少なくなって…。現実問題として、お金が廻らなくなっていったのね。守屋さん自身も大変だったでしょうが、働いているお医者さんたちもお給料貰ってたかどうか…。


突然の閉鎖後、従業員代表から関係者に送られた挨拶状

つづき >>