【コメント】
わたくし松村真司は、医師という仕事を「病気を治療するだけでなく、人々の健康を、そして健康的な暮らしや生き方をサポートする仕事。」そんなふうにとらえています。 日頃、私がどんな思いで患者さんと向き合っているかを知っていただきたいと思いました。
【過去のコラムは、こちら】
●第1回:「松村医院の医療方針
(プライマリ・ケア)について」
●第2回:「往診・訪問診療について」
●第3回:「予防接種について」
●第4回:「研修について」
●第5回:「コミュニケーションについて」
●第6回:「クオリティ・オブ・ライフ」
●第7回:「松村医院の建物改築について」
●第8回:「松村医院の建物改築について
〜第2弾 新生・松村医院へ」
第9回《松村医院小史》第一部 松村医院が誕生するまで
昭和初期から戦後にかけて、現在の松村医院からほど近い場所に、個性的な病院が存在していました。身体の不自由な子どもたちが学ぶ女学校と病院が併設された“クルュッペンハイム(後の大東学園病院)”。今では跡形もない病院の貴重な資料や写真が、医院建て替えの際にいくつか出てきたのです。興味深く資料に目を通した私は、幼い頃の記憶にかすかに残る“大東学園病院”についてもっと知りたいと思い、当時、輝きを放っていた頃の様子をご存知の佐藤光子さんにお話を伺いました。
松村:
昭和7年、上野毛の地に誕生した“クルュッペンハイム、後の大東学園病院”についてお話を伺いたいのですが…。この病院は、守屋 東(もりやあずま)さんという一人の女性によって誕生したそうですね。私も自分が幼稚園のときにお会いした記憶が少しだけあるんですが、守屋さんというのはどんな方だったのですか?
佐藤:
守屋 東さんは大変有名な方でね、様々な慈善事業やいわゆる社会浄化運動というようなことをなさった方なの。貧しい人を救い上げて助けるということや、女性の人たちを売春婦にしないというのが大きな目標で、お酒を飲まないとか煙草を吸わないとか、そういう運動を中心になってやっていたので仲間も多かったし、著名人の知り合いも多かったの。私が推測するに、当時、守屋さんの知り合いに上級階級の方が大勢いらしたんでしょう。病気で寝たきりという子が一人いたら、スポンサーとしてお金持ちで社会的地位のある方を一人つけて、その方達からの出資で身体の不自由な子たちのための女学校を作ったの。
昭和初期から戦後にかけて、日本の上流階級と言われるお金持ちの夫人たちの間では、高い理想主義を掲げ、ボランティア活動されている守屋さんに憧れる気持ちが強かったんじゃないかしら。とにかく人にお金を出させることが上手だったわね。当初は病院と言わず“クルュッペンハイム”という名前だったのよ。
松村:
クルュッペンハイムというのはドイツ語ですよね。
佐藤:
その当時、英語は御法度のご時世だったからドイツ語で名前を付けたんでしょう。女学校が誕生して同じ頃に、診察室を設けたんだと思うわ。寝たきりの(小児まひの)子どもたちが入院していたの。
松村:
幼い頃のかすかな記憶では、桜並木があって、庭に面して病室があって…という程度の記憶しかないんですが…。
佐藤:
それはそれは素敵な景観でしたよ。見学に行ったことがあるんだけど、敷地に入ると桜があって、きれいな芝生のスロープがなだらかに続いていて、夢みたいな空間。一定の時間が来ると、入院してる子どもたちが立派なベッドに横になったまま部屋から庭に出てきて、日光浴をしていたわ。まあ、素敵ね〜と感激したものよ。そういうのは守屋さんの夢だったんでしょうね。いわゆるキリスト教の病院で、日曜日に時々、英国人の旦那さんがいらして、礼拝をなさっていたの。当時としては建物も洒落ていたわ。
松村:
資料によると、昭和17年に大東学園病院に名称が変わったそうです。科目は小児科、内科、産婦人科だったと…。
佐藤:
そうだったと思うわ。私も子どもの出産の時に産婦人科にお世話になったのだけど、産気づいてから歩いていったのよ(笑)。近いところで助かっちゃったわ。2、3日入院したけど、そんなにお金はとらなかったわね。そこが守屋さんでね、理想主義だったのよ。夕方まで営業してて、夜は救急として稼働していたと思う。夜間お世話になったこともあるから…。とにかく何でも便利にできてたし、行くと看護婦さんが並んで迎えてくれるような立派な感じだったわね。
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